いくつも学習塾を見てきて、いくつかの塾で実際に働いてきて感じたのは、
最近は「学ぶ動機のない子」が随分増えたなぁ、ということです。
動機がないというのはつまり「熱意がない」ということです。
私が学生の頃にももちろんそういう子はいました。でも「何にも熱意を示さない子」は少なかった(ほぼ皆無だった)ように思います。
理科の実験になると目を輝かせる子。
社会の年号の語呂合わせがやたら得意な子。
国語はさして得意でもないのに、「枕の草紙」を暗記することには情熱を注ぐ子。(私です)
いろいろな個性を持つ「学ビスト」たちがいたものです。
しかし最近は「好きな(得意な)教科は何?」と聞いても「どれもあんまり・・・」と答える子がほとんどです。
とはいえ、テストになれば得手不得手ははっきりと点数になって表れます。
でも、点数が高かった教科を「頑張ったの?」と聞いても「別に…」。
逆に、点数が低かった教科を「難しかった?」と聞いても「別に…」。
では何が点数の差になったかといえば、ほとんどの場合
「塾の宿題が多かった(あるいは先生が口うるさかった)教科が高得点」なのです。
つまり「好きな教科だから高得点が取れた」という因果関係もなければ、「高得点が自信につながってその教科が好きになる」というモチベーションもほとんどの場合生成されないのです。
なんだか悲しいですね。
本来、子どもたちは得意も不得意もない同じラインから「学び」をスタートさせるはずではないでしょうか。
例えば赤ちゃんが言葉を覚える(学ぶ)ときに、「言葉が使えるとはっきり意思表示できて話が早いんだよね」とか「他の子より先に話せるようになったほうが自己主張できて得なんだよね」とは考えないのと同じです。
自分の知らない世界がある。
そこから心地よい掌が頭をなぜてくれて、肌触りの良い服をいつも着せてくれて、気持ちの良いトーンで話しかけてくれる。
何とかそこにつながりたくて、指を握り返したり、はじける笑顔を真似してみたり、言葉にならない声を発したりする。
そうしているうちに、いつの間にか自分が知らなかったところに自分が立っていることに気づき、その先にさらに地平が広がっていることを知るのです。
その事象(成長)に「早い遅い」と査定を入れるのは完全に大人の側の都合であり、その査定(「遅い」であれ「早い」であれ)が子どもの「学びの動機付け」に致命的な一撃を叩き込んでしまうことに無自覚な大人が増えているのではないかと思います。
また、勉強に関する悩みや不安は人それぞれです。
「頑張っても成績が上がらない」「そもそも勉強の仕方がわからない」という技術的なものから、
「親の期待に応えられない」「先生とどうしても反りが合わない」という気持ちの問題もあれば、
「どうしてもあの子に敵わない」「どうせ真剣になったところで」という動機付けの部分まで、
本当にその子その子で違うものです。
多くの場合、問題に劇的な解決方法はありません。
「学び」の動機付けが徐々に損なわれていったのと同じだけ、回復には時間がかかるものです。
「どんな荒療治でもいいから、とにかくすぐに治してくれ」という保護者の方と、それに応えてしまう学習塾が本当に多いことを私は心底恐ろしいことだと思っています。
日本の「義務教育」という(完璧では無いにしろ)世界的に見れば素晴らしいシステムの中でゆっくり子どもを育て、学ぶことの楽しさやその先に広がる新しい地平を見せてあげられることについて、もう少し考えてみませんか。
子どもたちは「教育を受ける権利」を持っているのであり、その権利をもっと声高に叫んだり行使することが許されているはずです。
そして私たち親(本来なら「大人」全員)は、子どもに適切な教育を与えてあげる「義務」を負っているのであり、それは「コロナ禍で減ったお給料でどうやって生活していこう」とか「今日の家族の晩ご飯は(栄養バランスや各自の好みを考慮して)何にしよう」と考えるのと同じ程度には真剣に考える責任があるはずです。
テストで一定の点数を取らせてあげたい。これは至極当然の願いです。
学校の先生がものすごく意地悪な問題を作成していない限り、それは基礎的な学力を身に着けたことの証だからです。
だからと言って、テストの作成者まで特定して同じ先生の過去問で徹底的に対策を講じることは子どもに何を教えていることになるのでしょうか。
それは一種のカンニング行為であり、ゲームで言えば「チート」です。
これが子どもたちの「学びの動機」にどんな一石を投じることになるのか?…私は不安でなりません。
当塾は、「暗記系科目」と分類されることが多い理科・社会には基本的にノータッチです。(追記:最近はあまりに相談や依頼が多いため、個別に判断し必要と思われれば全教科サポートいたします)
「学びの動機」を回復(あるいは創始)した子は必然的にどの教科も点数が伸び、平均レベルまで上がっていくことを経験上確信しているからです。
これに対し、「積み上げ型教科」に分類される数学・英語は一朝一夕で点数を上げる(つまり根本的な理解を得させる)ことは不可能です。
もしそれを可能にしようとするなら、ほかの教科の勉強を犠牲にする莫大な時間を費やすか、適切な「学び」の作法を台無しにする強制的な手法しか取りようがありません。
それゆえ当塾は数学と英語を軸にして、「問題が解決されないもどかしい時間」を一緒に過ごし、本来の「学び」と「成長」を見守る「メンター(助言者)」としての役割をお任せいただきたいと考えています。
お子さんの、生涯にわたる「学ぶ姿勢」をつくること。
二度と戻らない大切な「成長期」にきちんと伸びてもらうこと。
それこそが「自分の子どもを預けたくなる塾」を合言葉に旗揚げした当塾の理念です。
当塾の「TAKAKU」のローマ字表記は三つの「たかく」を含んでいます。
①「高く」
②「多角」
③「多核」
です。それぞれについて説明いたします。
①は親も教師も、「子どもに接する大人なら誰であれ願うこと」です。
目標は高く。今よりも高く。想像するよりも高く。
子どもたちには気持ちも身体も縮んでいて欲しくない。
「無限の」とは言わないまでも、「未知の」可能性に目を向けていて欲しいと思います。
②は「多角的にものを見る」という姿勢について。
①で「人より高く」と書かなかったのはここに理由があります。
当塾は集団塾では珍しく、家庭教師として個別に伺う事もあれば、不登校時の家庭学習のサポートも承っています。
集団授業の大きなメリットとして、「他の子との比較(競争)をモチベーションとして」成績アップを狙うという側面があります。
しかし、子どもたちが知的パフォーマンスを最大限に発揮するのは、まず「心地よさ」あってのことです。
極端な話、「集団の中で一番であろうとするなら、ほかの子の知的パフォーマンスを下げればいい(授業中に教室で騒ぐ・逆に一切反応せず授業を停滞させる・面白そうなゲームやYouTubeチャンネルを勧める)」わけで、これは実際に今の学校や社会全体に見られる悪しき潮流だと言えます。
子どもたちは「何かが不満だから」とか「時代が変わったから」授業に集中しないわけではありません。(もちろん一部でそういう子も増えてはいるでしょうが)
そうすることが自分の「相対的な位置」を高め、かつ熱心に勉強するよりコストパフォーマンスが良いから採用している戦略なのです。(ほとんどの子どもはそのことに無自覚でしょうが)
つまり、多数がこの戦略を採用して全体として下降の一途を辿る集団の中で「相対的に高い」位置を維持できたとしても、受験はもちろんのこと、その後の人生において努力を傾ける分野や努力の仕方を致命的に大きく間違える可能性があるということになります。
「学ぶ」ことを教える学習塾がその後押しをすることなど決してあってはならない!当塾はそう考えます。
それゆえ、子どもたちの様々な資質を「多角的に」見ること。加えて、他人と比べて見える良い点ではなく自分には見えないその子自身の背中を見せる鏡となってあげること。これを講師の側の責務として掲げてまいります。
③は②と似ていますが、「子どもたち自身を支える核となるものをたくさん探してもらう」ことです。
これには、子どもたち(及びご家庭)と接する時間やその質が重要であると考えます。
誰もが自分の子は特別だと思い、特別でいられなかった点を叱責することに終始する世の中です。でも、実際には特別な能力や視点に秀でた子がどれほどいるでしょうか。
ほとんどの子は普通の子です。そして、普通でいいのです。
我が家の小学生の娘にも特別な訓練や英才教育は施していません。でも、親も一緒に楽しみながら、挑戦し、褒め、改善することで、様々な資質を開花させてきました。
3年間通ったキッズダンスでは驚くほど振り付けを覚えるようになりましたし、小学校に上がって毎晩一緒に唱えた九九は一週間ほどで覚えました。(その割には足し算でとんでもないミスをしますが…)
子どもは自分が努力に応じて獲得したもの、他の人と喜びを分かち合えるものを「核」として、さらに多くのものを身に着けていきます。
逆に、努力したのに獲得できなかったもの(できなかったと信じ込まされたもの)、他の人が喜びを共にしてくれないものに対しては非常に敏感です。そして、お手軽に手に入る「核」(ゲームのランクであるとか、SNSのいいね・フォロワーの数であるとか)に逃げ込むようになってしまいます。
でも、学校の勉強・学習にはそうしたお手軽な逃げ道はありません(あるのは、前述の通り人を道連れにして引きずり下ろすという手法だけです)。だからこそ、
その子の「核」を共に探し(産み出し)、人生を伐り拓いていくツールとして自覚してもらう・磨いてもらうための苦しくも大切な時間を一緒に過ごしたいと切に願っています。